織田信長との恋
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序章:雷鳴と路地裏の魔王
土砂降りの金曜日、残業帰りの憂鬱
バケツをひっくり返したような豪雨が、コンクリートを容赦なく叩きつけていた。金曜日の午後十一時。世間が週末の解放感に浸る中、私に残されたのは、理不尽なクレーム処理で磨り減った神経と、湿気で張り付くトレンチコートの不快感だけだ。「……ついてないな」ため息交じりに漏れた独り言は、激しい雨音にかき消されて誰の耳にも届かない。駅へ急ごうと、普段なら避ける薄暗い路地裏へ足を踏み入れたのが間違いだったのかもしれない。ビルの隙間を縫うような狭い道は、雨水が濁流となって流れ込み、私の安物のパンプスを容赦なく浸していく。視界が悪い中、足早に進もうとしたその時、鼓膜を劈くような雷鳴が頭上で炸裂した。思わず身をすくめ、閉じた瞼の裏に焼き付く紫電の閃光。恐る恐る目を開けた私の視界に飛び込んできたのは、いつもの見慣れたゴミ捨て場ではなく、古めかしい着物を身に纏い、血と泥に塗れてうずくまる一人の男の姿だった。
ゴミ捨て場の陰で光る鋭い眼光
悲鳴すら喉の奥で凍り付いていた。目の前にいるのは、酔っ払いのサラリーマンでも、行き場を失った浮浪者でもない。濡れたアスファルトの上で、彼が纏う豪奢な布地は異質な輝きを放っている。髷(まげ)が解け、乱れた黒髪の間から覗く顔色は紙のように白いが、その身体から漂うのは酒の臭いではなく、むせ返るような鉄錆――鮮血の臭いだった。
私が後ずさりしようとした瞬間、男が微かに動いた。苦悶の唸り声と共に顔を上げ、濡れそぼった前髪の奥から、私を射抜くような視線が放たれる。
ヒッ、と短い息が漏れた。
それは、深手を負った獣の目だった。あるいは、地獄の底から這い上がってきた修羅の眼光。現代日本の路地裏には到底存在し得ない、圧倒的な殺気と支配欲を宿した瞳が、土砂降りの雨の向こうで怪しく光った。「貴様……何奴だ」。しわがれているが、腹の底に響くような威厳ある声が、雷鳴よりも恐ろしく私の鼓膜を震わせた。
傷だらけの甲冑と血の匂い
恐怖で足が竦んで動けない私をよそに、男は片膝をつき、必死に体を支えていた。街灯の薄明かりが、裂けた直垂(ひたたれ)の下にあるものを鈍く照らす。それは紛れもなく鉄だった。黒漆塗りの甲冑。作り物のような軽薄さは微塵もなく、雨に濡れて重厚な輝きを放っているが、所々が無残に砕け、そこから止めどなく赤い液体が溢れ出していた。
「う……ぐ……」
男が苦しげに胸元を押さえると、ガシャン、と重たい金属音が路地裏に響く。それは映画やドラマの効果音ではない、本物の鋼がぶつかり合う音だ。
鼻をつく血の匂いは、雨脚が強まっても消えるどころか、むしろ濃厚になって私の呼吸を塞ごうとする。ハロウィンの仮装? 映画の撮影? そんな現実逃避じみた思考は、足元まで流れてきた赤黒い雨水を見て瞬時に吹き飛んだ。これは本物だ。目の前で死にかけているこの男は、まともな現代人ではない。
「ここは尾張か?」と問う男
男は苦悶の表情を浮かべながらも、決して私の目から視線を逸らそうとしなかった。その唇がわななき、赤く染まった口端から新たな血が滴り落ちる。「答えよ……」命令口調だ。今の今まで死の淵にいたとは思えないほど、その声には有無を言わせぬ響きがあった。「ここは、尾張か?」
耳を疑った。オワリ? 歴史の授業で聞いたことのある地名。まさか、愛知県の?
混乱する頭で周囲のビルを見上げる。ネオンの明滅が雨に滲んでいるここは、東京のど真ん中、新宿の裏路地だ。
「ち、違います。ここは東京……です」
震える声でそう返すと、男は怪訝そうに眉を寄せた。「トウ……キョウ……? 聞かぬ名だ」
聞き慣れぬ響きを反芻するように呟くと、男はふらりと体勢を崩し、再び泥水の中へと倒れ込んだ。意識を失う寸前、彼が悔しげに吐き捨てた言葉が、雷鳴の残響と共に私の耳に残った。「是非も……なし……」
第1章:第六天魔王、ワンルームに住まう
とりあえず警察か救急車か、それとも
男の体は泥水に沈んだまま動かない。私は慌ててポケットからスマートフォンを取り出した。指先が震えてロック解除すらもどかしい。一一九、いや、事件性があるから一一〇? 画面をタップしようとした親指が、ふと止まった。
街灯に照らされた腰元の刀。濡れた鞘の隙間から覗く刃紋が、作り物ではない冷たさを主張している。もし警察が来たら、彼は即座に銃刀法違反で拘束されるだろう。いや、それ以前にこの異常な状況をどう説明すればいい? コスプレをした不審者が怪我をして倒れています、とでも?
「……っ」
雨は激しさを増し、彼の白い顔色からさらに生気を奪っていく。このままでは死んでしまう。警察や救急隊を待って説明している時間などないかもしれない。それに、あの最期の言葉――「是非もなし」。歴史の教科書でしか見たことのないその言葉が、妙に胸に引っかかっていた。
気がつけば、私は通報画面を閉じ、泥だらけの彼の腕を掴んでいた。重い。甲冑の重みがずしりと腕にのしかかる。私のワンルームマンションは、この路地を抜けたすぐ先だ。
「正気じゃないわよ、私……」
土砂降りの雨音に紛れ込ませた独り言は、誰に向けた言い訳だったのか。私は魔王と呼ばれた男の、そのあまりに重い体を背負い込んだ。
現代文明 vs 戦国の覇者
狭い玄関になんとか彼を引きずり込み、フローリングに寝かせた直後だった。「う、ぬ……っ!」男が弾かれたように上半身を起こした。傷だらけの身体のどこにそんな力が残っていたのか。彼は血走った目で周囲を睨みつけると、天井に張り付くシーリングライトを指差して叫んだ。「妖術か!」
あまりの大声に、私は救急箱を取り落としそうになる。「落ち着いてください、ただの電気です! 照明!」
「デンキ……? 燭台もなく、あのようなあかあかと……」彼は信じられないものを見る目で、LEDの白い光を凝視している。無理もない。蝋燭の灯りしか知らない人間にとって、この人工的な明るさは暴力的なまでに眩しいはずだ。
さらに彼を追いつめたのは、壁際で低い駆動音を立て始めたエアコンだった。送風口が開き、冷たい風が吹き出した瞬間、彼は這うようにして後ずさり、腰の刀に手を掛けようとした。「風使いの仕業か。ええい、どこに潜んでおる!」
「誰もいませんってば! それは部屋を涼しくする機械です!」
私の必死の弁明も、彼の耳には届かないらしい。天下布武を掲げた覇者も、六畳一間のワンルームで、文明の利器相手に臨戦態勢をとっている。
スマホは妖術、テレビは幻術
「貴様、懐に何を入れている!」
突然、私のポケットで着信音が鳴り響き、男の殺気が一気に膨れ上がった。慌てて取り出したスマートフォンの画面が明るく点滅しているのを見て、彼は顔を強張らせる。「光る石……? いや、そこから声が聞こえるぞ。まさか、忍(しのび)の手の者か!」
「違います、これは電話! 遠くの人と話す道具!」
説明しようと身振り手振りを交えた拍子に、テーブルの上のリモコンに肘が当たってしまった。プツン、という音と共に、黒い静寂を保っていた大型テレビが突如として覚醒する。画面いっぱいに映し出されたのは、能天気な笑顔を浮かべるバラエティ番組のひな壇芸人たちだった。
「なっ……!?」
男は目を見開き、後ずさりして壁に背を打ち付けた。「箱の中に……人が封じ込められているのか!? しかも、この狭き箱の中に数名も……何たる邪法、何たる幻術!」
彼は今にも斬りかからんばかりの形相で、抜く手も見せず刀の鯉口を切った。
「落ち着いて! 誰も閉じ込められてません! ただの映像です!」
天下布武を掲げた魔王が、五〇インチの液晶画面に本気で怯えている。このシュールすぎる光景に、私は恐怖も忘れて力が抜けそうになった。
コンビニおにぎりの衝撃的な美味さ
テレビの電源を抜き、ようやく部屋に静寂が戻ったころ、ふと彼の腹の虫が盛大に鳴いた。天下の魔王も空腹には勝てないらしい。私はカバンから自分の夕飯用に買っておいたコンビニのおにぎりを取り出した。「毒など盛っておらぬだろうな」と疑り深い視線を向ける彼に、私はため息を一つつき、ツナマヨおにぎりのパッケージを慣れた手つきで引き裂いた。
「見ててください。こうやって開けて……私が先に食べますから」
端を一口齧って見せると、彼はようやく渋々といった様子で、差し出された三角形を受け取った。恐る恐る口に運ぶ。パリッ。静かな部屋に、小気味良い音が響いた。
咀嚼する彼の動きが、ピタリと止まる。
「……なんだ、これは」
彼はカッと目を見開き、手の中の黒い塊を凝視した。「この飯……一粒一粒が真珠の如く輝き、噛めば甘露のような甘みが広がる。それにこの黒い紙、磯の香りが鼻腔をくすぐり、何とも香ばしい。さらに中に入っているこの奇妙な練り物……」
「ツナマヨです」
「ツナ……マヨ……? 南蛮の料理か? ええい、何でもよい! このような美味なる握り飯、京の帝(みかど)とて食したことはあるまい!」
彼は夢中で残りを頬張り始めた。頬にご飯粒をつけながらコンビニおにぎりに感動する戦国の覇者の姿は、なんだか少しだけ可愛らしく見えた。
私が家臣で、あなたが居候!?
「ふむ、腹も満ちた」
信長と名乗る男は、満足げに唇を拭うと、畳代わりのラグの上であぐらをかき、当然のように私を見上げた。その態度は、命を救われた者とは到底思えないほど尊大だった。
「女、大儀であった。褒美として、余が元の世に戻る手立てを見つけるまでの間、余の側仕えを許して遣わそう」
「……は?」
あまりの言い草に、私は呆気にとられて口を開けたまま固まった。側仕え? 許して遣わす?
「あのですね、状況を整理させてください。ここは私の家で、貴方は行き倒れていたところを私が拾ったんです。本来なら、私の方が『助けてくれてありがとう』と言われる立場なんですけど」
私が精一杯の抗議をすると、彼は心底不思議そうに眉をひそめた。
「何を申しておる。余は天下人ぞ? その余の世話ができるのだ、家臣末席に加わる誉れに涙を流して喜ぶがよい」
話が通じない。この男、現代の常識も資本主義も全く理解していない。頭痛を堪えてこめかみを押さえる私に、彼はニヤリと不敵な笑みを向けた。
「案ずるな。天下布武の暁には、この城(ワンルーム)より遥かに巨大な城をくれてやる。それまでは励めよ、新入り」
こうして、前代未聞の主従契約が結ばれた。家主の私が家臣で、無一文の彼が主君。ワンルームでの奇妙な同居生活は、こうして理不尽に幕を開けた。
第2章:400年の時差ボケと予期せぬときめき
信長様、現代社会に適応し始める
あれから数日。信長様の適応能力は、私の想像を遥かに超えていた。「うつけ」と呼ばれた幼少期のエピソードは伊達ではないらしい。彼は最初こそ家電に怯えていたものの、その仕組みを一度「理(ことわり)」として理解するや否や、まるで長年使い込んだ武具のように扱い始めたのだ。
今では、リモコンを片手にテレビのニュース番組をチェックし、「この『国会』といふ評定(ひょうじょう)、進行が遅すぎるわ! 余なら即座に断を下すものを」と、もっともらしい顔で政治批判まで繰り広げている。
お風呂の給湯システムも、「湯治場が指先一つで現れるとは、極楽もかくや」とすっかりお気に入りで、朝晩二回の入浴を欠かさない。清潔好きなのは助かるが、来月の水道代の請求を見るのが恐ろしい。
極めつけは情報収集への執着だ。私の古いタブレットを渡すと、フリック入力こそまだ覚束ないものの、音声検索機能を駆使して「尾張 現在」「本能寺 変 黒幕」などと検索し、現代における歴史認識を貪欲に吸収し始めていた。
「おい、女。この『ウィキペディア』という書物、明智の記述が甘すぎるぞ。余の怒りはこんな行数では収まらん」
天下人の現代適応、早すぎてついていけない。
鋭すぎるカリスマ性と職務質問
「外の空気を吸いたい」という信長様のご乱心により、私たちは夜のコンビニへ向かっていた。私の弟が置いていったダボっとしたスウェットを着せられた彼は、現代人の若者風に見えなくもないが、その背中から滲み出る覇気だけはどうしても隠しきれていなかった。
案の定、交番の前を通った瞬間、若い警察官に呼び止められた。「そこの二人、ちょっといいかな」
深夜の徘徊、鋭すぎる目つき。職務質問の条件は見事に揃っている。「何か用か?」信長様が振り返った瞬間、夜の空気が一瞬にして凍りついた。ただ視線を向けただけだ。それなのに、警察官の手が反射的に腰の装備へ伸びそうになるのを私は見た。
「き、君、何か危険なものでも……」
「ほう、民草を守る番人が、丸腰の余に怯えるか」
彼は鼻で笑うと、威風堂々と一歩前へ踏み出した。「貴様の目は節穴か。見定めるべきは懐の中身ではなく、目前の相手の器量であろう。そのような惰弱な心構えで、帝都の治安が守れると思うてか!」
その一喝は、雷鳴のように腹の底に響いた。警察官は蛇に睨まれた蛙のように直立不動になり、「は、はいっ!」と条件反射で敬礼してしまう。私は慌てて二人の間に割って入った。「す、すみません! 劇団の練習帰りなんです! 役作りに入り込んでて!」
教科書で知ってしまった「本能寺の変」
部屋に戻ると、信長様はソファに深く沈み込み、タブレットの画面を指先でなぞっていた。その背中は、先ほど警察官を一喝した時とは違い、どこか小さく、そして酷く孤独に見えた。
「おい」
静かな声で呼ばれ、私はビクリと肩を震わせた。覗き込んだ画面には、教科書で何度も見た『本能寺の変』の文字と、燃え盛る寺院の挿絵が表示されている。
「余を討ったのは、光秀か」
問いかける声に感情の色はない。ただ事実を確認するような冷徹さが、逆に胸を締め付ける。私は何も言えず、ただ小さく頷くことしかできなかった。
「ふん、あのキンカ頭め……。茶の湯の作法一つにも細かすぎる男が、随分と思い切った真似をしたものよ」
彼は自嘲気味に口の端を歪めたが、その瞳の奥は笑っていなかった。信頼していた部下の裏切りを知った衝撃は、400年の時を超えても色褪せないのだろうか。
「余の遺骸は見つからなかった、とあるな。……そうか。ならば光秀も、さぞかし寝覚めが悪かったであろう」
タブレットを放り出すと、彼は天井を仰いだ。蛍光灯の白すぎる光が、戦国の覇者の苦い横顔を照らし出す。その表情を見てしまった瞬間、私は彼が単なる居候ではなく、壮絶な運命を背負った一人の人間なのだと、改めて痛感させられた。
歴史の真実と彼の孤独
「猿が……天下を、か」
静寂に包まれた部屋に、信長様の独り言がぽつりと落ちた。画面に映る『豊臣秀吉』の文字。草履取りから這い上がった男が、主君の死後に天下を統一したという史実を、彼は瞬きもせずに見つめている。
「徳川の狸親父も、随分と長生きして……二百年も続く泰平を築いたか。ふん、あの慎重居士らしいわ」
歴史の結果を知った彼の表情は、怒りよりもどこか憑き物が落ちたような、凪いだ海のような静けさを湛えていた。彼が血と汗で積み上げた石垣の上に、別の誰かが城を完成させた。その残酷な事実を、彼は四百年後のワンルームで、たった一人受け入れている。
その背中は、世界中の誰よりも孤独だった。かつての家臣も、愛した女も、競い合った敵将も、もうこの世にはいない。すべては過去のページの中だ。
私はキッチンで温めたココアをマグカップに注ぎ、そっと彼の前のローテーブルに置いた。
「甘いですよ。……頭、疲れたでしょうから」
彼は怪訝そうに黒い液体を見つめたが、一口飲むと、ふっと強張っていた表情を緩めた。
「……悪くない。南蛮の菓子のような香りだ」
湯気の向こうで、魔王が少年のように微かに笑う。その無防備な横顔を見た瞬間、私の胸の奥で、トクリと心臓が跳ねた。それは恐怖でも同情でもない、もっと厄介で温かい、恋の予感に似た疼きだった。
不意に見せた笑顔の破壊力
ココアのマグカップをテーブルに戻した彼は、ふと私の顔を覗き込んだ。先ほどまでの孤独な影は鳴りを潜め、瞳には好奇心のような光が宿っている。「そういえば、貴様の名を聞いていなかったな」
唐突な問いに、洗い物をしようと立ち上がった私は足を止めた。拾われて数日、ずっと「女」や「貴様」呼ばわりだったのに、今さら?
「……沙織です。藤本沙織」
少しむくれながら答えると、彼はその名を口の中で転がすように何度か呟いた。「サオリ……か。悪くない響きだ」
そう言って、彼は私に向けてニヤリと笑った。それは先ほどの儚げな微笑みとは違う、男の色気を帯びた不敵で魅力的な笑みだった。「サオリ、茶の礼を言うぞ」
たったそれだけの言葉、たった一度名前を呼ばれただけ。それなのに、私の心臓は早鐘を打ち、顔に熱が集まるのを止められなかった。天下を統べる男のカリスマ性とは、これほどまでに暴力的なものなのか。無自覚に振り撒かれるフェロモンに、私は流し台の前でただ立ち尽くすことしかできなかった。
第3章:禁断の恋は炎のように
東京タワーから見下ろす天下の絶景
「これが、未来の尾張……いや、日の本の姿か」
東京タワーの展望台。ガラスの向こうに広がる光の海を見下ろし、信長様は感嘆の溜め息を漏らした。
週末の夜景は、まるで宝石箱をひっくり返したように煌めいている。高速道路を流れる車のテールランプ、摩天楼の窓明かり。かつて彼が「天下布武」を掲げて目指した国が、四百年の時を経て辿り着いた繁栄の極み。
「地上の星空だな」
ガラスに手を当て、彼は愛おしそうに眼下を覗き込む。「安土の城から見た琵琶湖の月も美しかったが、この人工の灯火(ともしび)も悪くない。これほど多くの民が、夜も眠らず活動できる世……余が夢見た泰平とは、これほど眩いものであったか」
その横顔は、私の知る歴史上の「魔王」ではなく、夢を語る少年のように純粋だった。赤くライトアップされた鉄骨の影が、彼の顔に落ちる。
「サオリよ」
不意に彼が振り返り、私を見据えた。背景の夜景よりも、その瞳の輝きの方が強く私を惹きつける。
「この景色、余に見せてくれたこと、礼を言う。……悪くない眺めだ」
彼の低い声が、騒がしい観光客の声に紛れることなく、私の心臓を直接震わせた。この瞬間、私はただの家臣役ではなく、彼と同じ景色を共有する「特別な誰か」になれたような気がして、胸が熱くなった。
触れそうで触れないもどかしい距離
展望台からの下りエレベーターは、予想以上の混雑だった。すし詰め状態の箱の中で、私は奥の壁へと追いやられてしまう。「くっ……」圧迫感に顔をしかめたその時、目の前に強固な壁が立ちはだかった。
信長様だ。彼が両腕を私の顔の横につき、人波の圧力から私を守るように空間を作ってくれたのだ。いわゆる「壁ドン」の体勢だが、今の私にときめく余裕はない。いや、余裕がないのは心臓が破裂しそうだからだ。
鼻先が触れそうな距離。彼の整った顎のライン、長いまつ毛、そして少し熱っぽい瞳が、至近距離で私を捉えている。弟の古着からは微かに柔軟剤の香りがするはずなのに、今の彼からは、もっと野生的な、男の匂いが漂ってくる気がした。
「……狭いな」
彼が低く呟く。その吐息が私の前髪を揺らし、頬に熱を伝えた。
「そ、そうですね……」
視線を逸らそうにも、左右は彼の腕で塞がれている。ふと、彼の手が私の肩に触れようとして、空中で躊躇うように止まったのが見えた。
触れてほしい。触れちゃいけない。
互いの呼吸音が聞こえるほどの静寂。電子音が到着を告げ、彼がパッと身を引くまで、私たちは時が止まったように見つめ合っていた。
「貴様を誰にも渡さぬ」という独占欲
東京タワーを背に駅へと向かう道すがら、不躾な声が私を引き止めた。「ねえお姉さん、今から飲み行かない? ていうか、その連れ、コスプレ?」軽い調子の男たちが、私の行く手を塞ぐように立ちはだかる。私が困惑して視線を逸らそうとした瞬間、横にいた信長様が男の一人の手首を掴み上げた。
「痛っ、な、何だよお前!」
「失せろ。二度とその汚らわしい手を、余の女に向けるな」
路地裏で初めて会った時と同じ、凍てつくような殺気。男たちは悲鳴を上げて逃げ出した。静寂が戻った歩道で、信長様は乱暴に私の腕を引き寄せ、逃がさないとばかりに強く抱きすくめた。
「……おい、サオリ」
耳元で囁く低い声が、怒りで微かに震えている。「貴様は余の家臣であり、余が唯一心を許した女だ。他の男の視界に入ることすら、余は許さぬぞ」
街灯の逆光で表情は見えない。けれど、痛いほど強く握られた手と、「誰にも渡さぬ」という熱い宣言が、私の理性を焼き尽くそうとしていた。
時を超えるファーストキス
抱きしめられた腕の強さに、私の鼓動は早鐘を打っていた。「余の女」という言葉が、頭の中で熱を帯びて反響し続ける。信長様はゆっくりと腕を緩めたが、その熱っぽい視線は決して私を離そうとはしなかった。都会の喧騒が遠のき、二人だけの静寂が降りてくる。
「サオリ」
甘く、低い声で名前を呼ばれ、私は吸い寄せられるように彼を見上げた。街灯の光が彼の瞳の中で揺れている。そこには、戦国の世を生きた男の激しさと、私だけに向けるどうしようもない愛しさが混在していた。
「天下など、もはやどうでもよいと思える時がある。……貴様が笑っておればな」
信じられない言葉だった。あの天下布武の魔王が、全てを捨ててもいいと言うなんて。驚きに目を見開く私の頬に、彼のごつごつとした手が優しく触れる。逃げるつもりなどなかった。彼の指先が顎を掬い上げ、強引に、けれど壊れ物を扱うように顔を近づける。
唇が重なった瞬間、世界が静止したようだった。四百年の時を超え、歴史の裂け目で巡り合った二人の魂が、口づけによって一つに溶け合っていく。それは激しく燃える炎のようでありながら、どこか懐かしく、泣きたくなるほど切ない味がした。
第4章:迫りくる歴史の修正力
突如として透け始めた指先
幸せな時間は長くは続かない。それは歴史の必然であり、残酷な法則なのかもしれない。
あの夜の口づけから、世界は輝きを増したように見えた。しかし、翌朝の朝食時、その幻想は音を立てて崩れ去った。
「……ぬ?」
いつものようにコーヒーが入ったマグカップを取ろうとした信長様が、怪訝な声を上げた。彼の手が、カップの取っ手を掴むことなく、まるで陽炎のようにすり抜けたのだ。指先が虚空を掻き、カチャンと陶器が乾いた音を立てて揺れる。
「信長様……?」
私が声をかけると、彼は自分の右手を目の高さに掲げ、朝日の方へと透かした。息を呑んだ。逆光の中にあるはずの骨張った指の輪郭が曖昧にぼやけ、向こう側のカーテンの柄がうっすらと見えていたからだ。
「どうやら、余の身体はこの世の理(ことわり)には馴染まぬらしい」
彼は努めて冷静にそう言ったが、その声には隠しきれない動揺が滲んでいた。実体を失いかけたその指先は、彼が遠い過去の幻影であることを残酷なまでに突きつけていた。この世界が、彼という異物を排除しようとしている。その事実に、私の背筋は凍りついた。
繰り返される炎の悪夢と頭痛
それからというもの、夜毎に訪れる悪夢が彼を苛み始めた。深夜、隣で眠る信長様の荒い呼吸音で私は目を覚ます。脂汗を浮かべ、苦悶に歪む彼の顔は、何か恐ろしいものと戦っているようだった。「熱い……燃える……!」うわ言のように繰り返される言葉。彼は夢の中で、あの本能寺の業火に何度も焼かれているのだ。
私が冷たいタオルで額を拭おうとすると、彼は弾かれたように目を見開き、激しい頭痛に頭を抱えてうずくまった。「ぐうぅ……っ! 頭が、割れるようだ……」
その苦しみ方は尋常ではなかった。鎮痛剤を飲ませようとしても、コップを持つ手が震え、水がこぼれてしまう。発作が起きるたびに、彼の輪郭が一瞬ブレて、テレビのノイズのように明滅する。この世界が彼を拒絶し、あるべき場所――あの炎の中へと強制的に引き戻そうとしているかのような光景に、私はただ背中をさすることしかできず、自身の無力さに唇を噛み締めた。
歴史は変えられないという残酷なルール
インターネットで検索した「タイムパラドックス」「歴史改変」の文字が、私の網膜に焼き付いて離れない。SF映画や小説の話だと笑い飛ばしたかったが、目の前で消えかかっている彼を見れば、それが残酷な真実だと認めざるを得なかった。
歴史という巨大な奔流にとって、織田信長が現代で生きていることは致命的な「エラー」なのだ。宇宙の自浄作用が、バグである彼を消去しようとしている。
「……悟った顔をするな」
私の思考を読んだのか、信長様が静かに告げた。その瞳は、自身の運命を既に受け入れているように澄んでいた。
「余が生きては、後の世が歪む。秀吉も家康も、そして貴様が生きるこの泰平の世も存在し得なくなる……そうであろう?」
肯定も否定もできず、私は涙を堪えて俯いた。彼がこのままここに留まれば、その存在は泡のように消滅する。だが、元の時代に戻れば、待っているのは確実な死――本能寺の業火だ。どちらを選んでも、私たちには「別れ」しか用意されていない。歴史は変えられない。その絶対的なルールが、二人の間に冷たく立ちはだかった。
別れの予感と止められない涙
日常は残酷なほど穏やかに過ぎていく。夕食の片付けを終え、二人並んでソファに座る。いつものバラエティ番組が流れているが、笑い声は水槽の外から聞こえてくるように遠かった。
信長様の右手が、リモコンを取ろうとして空を切った。指先が蜃気楼のように揺らぎ、実体を結ばない。それを見た瞬間、喉の奥で張り詰めていたものが決壊した。
「泣くな」
視線を合わせずとも、彼には分かっていたのだろう。透けかけた手で私の頬に触れようとする。けれど、その指先は私の肌の温もりを感じることなく、冷たい風のようにすり抜けた。
「……っ!」
嗚咽が漏れた。もう触れることすら許されないのか。こんなに残酷な終わり方があるだろうか。
「うつけ者が。そのような顔を見せるなと言っておる」
彼は強がって口の端を上げたが、その表情は今にも泣き出しそうに歪んでいた。このまま時間が止まればいい。明日なんて来なければいい。叶うはずもない願いが胸を締め付ける。
「サオリ、時は満ちたようだ」
決定的な言葉を聞きたくなくて、私は耳を塞ぐように、実体を失いつつある彼の胸に縋り付いた。腕の中から伝わる温度はあまりに儚く、私の涙は留まることを知らなかった。
元の時代に戻れば、彼は死ぬ
「戻れば……死ぬんですよ? 史実通りなら、あの炎の中で、貴方は……」
声が震えて言葉が続かない。彼が元の時代に帰還するということは、すなわち一五八二年六月二日の本能寺へ戻ることを意味する。それは確実な「死」への片道切符だ。
私の悲痛な訴えに対し、信長様は透けかけた腕を組み、泰然としていた。
「案ずるな。余はただ、あるべき場所へ還るだけのこと」
「どうしてそんなに平気なんですか! 死ぬって分かってて飛び込むなんて……!」
「平気なわけがあるまい」
彼はふっと自嘲気味に笑った。「だがな、サオリ。余がここで生き延びれば、歴史の歯車は狂う。秀吉の天下も、家康の泰平も消え失せ、巡り巡って貴様という存在すら消えてしまうやもしれぬ。貴様の生きるこの穏やかな世を守るためならば、業火に焼かれる運命とて、甘んじて受け入れよう」
その言葉は、あまりにも英雄的で、そして残酷だった。愛する女の未来を守るために、自らの死を選び取る。そんなの、あんまりだ。私は彼の胸板を叩こうとしたが、その拳は虚しく彼の体をすり抜けた。触れることすらできないその距離が、決定的な別れを告げていた。
第5章:天下布武よりも大切なもの
最後のデートは二人の思い出の場所で
「最後に、行きたい場所がある」
消え入りそうな声で彼が望んだのは、きらびやかな観光地ではなく、マンションの裏手にある小さな公園だった。
深夜二時。街灯だけが頼りなく照らすベンチに、私たちは並んで座った。ここは、彼が初めて現代の服を着て外出し、自動販売機の温かい缶コーヒーに目を丸くして感動した場所だ。
「あの時、この苦い黒湯を美味だと申した貴様の味覚を疑ったものだが……今では悪くないと思える」
信長様は懐かしそうに目を細め、透け始めた指先で虚空にある記憶を撫でた。彼の輪郭は、もう月の光に溶けてしまいそうなほど希薄になっている。
「私も……信長様が初めてコンビニのおでんを見た時の顔、一生忘れません」
努めて明るく振る舞おうとしたが、声が震えてしまう。天下を統べるはずだった男との、これが最後のデート。特別なイベントなど何もない、ただ冷たい夜風と静寂があるだけの時間が、どんな贅沢な遊びよりも愛おしく、そして残酷なほど短く感じられた。隣にいるのに、もう彼が遠い世界へ逝こうとしているのが分かってしまう。私は溢れそうになる涙を堪え、しっかりと彼の方を向き続けた。
運命への反逆と覚悟
夜風が強まり、公園の木々がざわめいたその時、信長様の右半身が蛍の光のように淡く散り始めた。いよいよ、その時が来たのだ。
私が悲鳴を上げて駆け寄ろうとすると、彼は「来るな!」と鋭い声で制した。立ち上がった彼の姿は、月の光に透けて向こう側の景色と同化しかけている。だが、その瞳に宿る炎だけは、決して消えることなく、むしろ最期の瞬間(とき)を前に激しく燃え盛っていた。
「勘違いするなよ、サオリ」
彼は夜空を、あるいはその向こうにある歴史という名の巨大な敵を睨み据えた。
「余は運命になど屈さぬ。死ぬために戻るのではない。貴様が生きるこの『未来』という名の天下を、余の命と引き換えに勝ち取りに行くのだ」
それは、定められた死への敗北宣言ではなく、時空を超えた運命への反逆だった。彼は自らの意思で死地へ赴き、私の生きる世界を守り抜くというのだ。
「天下布武よりも重きものを、余は見つけた。……誇らしく思うぞ」
その顔には、もはや迷いも恐怖もなく、ただ愛する女の未来を守るという、王の覚悟だけが刻まれていた。
貴様と生きる未来が欲しかった
「……だが、許せ」
光の粒子となって崩れゆく中で、信長様がふと弱々しい声を漏らした。強靭な精神で運命を受け入れたはずの彼が、今にも泣き出しそうな顔で私を見つめている。
「本音を言えば……無念だ。京に上ることでも、天下を平らげることでもない。ただ、貴様と共に、あの狭い城(ワンルーム)で、変わらぬ朝を迎えたかった」
その言葉は、私の胸を鋭利な刃物のように抉った。
「コンビニの握り飯を食らい、くだらぬ絵草紙(テレビ)を見て、貴様と笑い合う。そのような些細な日々が、天下を統べることより余の心を満たすとはな」
彼の姿はもう、輪郭を保てなくなっていた。けれど、その瞳だけは最期まで私を映し続けている。
「貴様と生きる未来が……欲しかった」
王としての威厳も、歴史を守る使命も脱ぎ捨てた、一人の男としての切実な叫び。叶うことのないその願いが、夜空に溶けていく。私は声を上げて泣きじゃくりながら、虚空を掴むように何度も何度も彼の手があった場所へ手を伸ばした。
さよなら、私の愛した魔王様
「サオリ、達者でな」
それが、彼の最期の言葉だった。光の粒子がいっそう強く輝き、彼の姿を完全に包み込む。伸ばした私の指先が、その光の渦に触れた瞬間、パァンと弾けるような音と共に、彼は無数の蛍火となって夜空へと舞い上がった。
「待って……行かないで!」
叫び声は虚しく空気を震わすだけだった。光は螺旋を描きながら天へと昇り、一瞬だけ眩い閃光を放つと、ふっと掻き消えた。まるで最初から何もなかったかのように。
後に残されたのは、深夜の公園を支配する静寂と、私の嗚咽だけ。ベンチの隣に手を置いても、そこにはもう温もりも、重みも、彼が存在した痕跡すら残っていない。彼は戻ったのだ。あの紅蓮の炎が待つ本能寺へ。私たちが生きるこの未来を守るために、自ら死を受け入れに。
「うぅ……あぁ……っ」
膝から崩れ落ち、冷たいアスファルトに涙が止めどなく零れ落ちる。もう二度と会えない。その絶望的な事実が胸を引き裂く。
「さよなら……私の、愛した魔王様」
私は誰もいない夜空を見上げ、震える声で最期の別れを告げた。この胸に残る焼けるような痛みだけが、彼が確かにここにいたことの、唯一の証明だった。
終章:時空を超えたラブレター
信長がいなくなった静かな部屋
彼が光となって消えてから、一週間が経った。私のワンルームは、こんなにも静かだっただろうか。朝、目覚めてすぐにソファの方を確認してしまう癖が抜けない。そこには、あぐらをかいてニュース番組に毒づく彼の姿も、不器用な手つきでスマホを操作する背中もない。ただ、量販店で買った安物のクッションが、主を失って転がっているだけだ。
彼が使っていたマグカップは洗って食器棚に戻したが、それを見るたびに胸が締め付けられる。冷蔵庫には、彼が「甘露」と呼んで気に入っていたプリンが一つ、賞味期限切れ間近で残されたままだ。
「夢……だったのかな」
独り言が、吸音材のように静寂に吸い込まれていく。
彼がいた痕跡は、部屋のどこにも残っていない。甲冑も、刀も、彼自身と一緒に消えてしまった。まるで、最初からすべて私の妄想だったかのように。けれど、ふとした瞬間に蘇る彼の体温や、低く響く声の記憶が、それが現実であったことを残酷なほど鮮明に突きつけてくる。この部屋は広すぎる。かつては狭くて息が詰まりそうだと思っていた六畳間が、今は世界の果てのように広大で、孤独で満たされていた。
博物館の特別展で見つけた奇跡
心に空いた穴を埋める術も見つからぬまま、私は友人に誘われるがまま国立博物館の「戦国・織田信長展」に足を運んでいた。会場は歴史ファンで溢れかえっていたが、私の目にはすべてが色褪せて映る。彼が実際に身につけたという陣羽織や、書状。それらはガラスの向こうで冷たく沈黙を守り、あの熱い体温を持っていた彼とは別物に思えた。
「ねえ沙織、これ見て! 新発見の資料だって」
友人が指差した先には、人だかりができていた。最奥の特別展示ケース。そこには『本能寺の焼け跡から奇跡的に回収された、最期の書状』という解説と共に、端が黒く焼け焦げた一枚の和紙が鎮座していた。煤で汚れ、判読も難しいその紙片に目を落とした瞬間、私の心臓が激しく跳ねた。
力強く、跳ねるような独特の筆跡。見間違えるはずがない。彼が私の部屋で、メモ帳に試し書きしていたあの字と同じだ。
『沙の如き星、織り成す夜空の下。玻璃の塔より望んだ絶景、この眼に焼き付きて離れず』
歴史学者の解説プレートには「風景を詠んだ詩歌と思われるが、意味は不明」と記されている。けれど、私には分かった。「沙」と「織」。その文字が意図的に文頭に置かれていることも、「玻璃の塔」があの東京タワーであることも。これは、400年の時を超えて彼が私に残した、たった一つの愛の証だった。
歴史書に記された、たった一行のメッセージ
ガラスケースの前で動けずにいる私の目に、もう一つの展示物が飛び込んできた。それは、『信長公記』の異本とされる古い書物の複製パネルだった。一般的な歴史書には記されていない、本能寺の変における信長様の最期の様子。そこに記された筆文字の現代語訳を読んだ瞬間、私の涙腺は再び決壊した。
『炎が本堂を包む中、上様は決して取り乱すことなく、むしろ何かを懐かしむように穏やかな表情を浮かべておられた。そして虚空を見上げ、誰に聞かせるでもなく、こう呟いたという。「あやつの生きる未来(よ)は、今宵も光り輝いておろうか」。その声は、天下人の威厳に満ちつつも、恋うるごとき響きを帯びていた』
歴史学者はこれを「未練」や「辞世の句の変形」と解釈しているらしい。けれど、私には分かった。これは問いかけだ。あの東京タワーから見た夜景、コンビニの明かり、そして私が生きるこの現代社会。彼は最期の瞬間まで、自分が命と引き換えに守った「光り輝く世界」と、そこに住む私のことを想ってくれていたのだ。
「輝いてるよ……信長様」
私はガラスに額を押し当て、小さな声で答えた。四百年の時を超えて届いたメッセージ。彼は確かに、あの炎の中で、私との思い出を胸に抱いて旅立ったのだ。その事実は、空っぽだった私の心に、決して消えることのない温かな灯火を灯してくれた。
雨上がりの空に誓う愛
博物館の重厚な扉を押し開けると、予報通りの通り雨は既に上がり、雲の切れ間から洗われたばかりの青空が覗いていた。あの日、彼と出会った路地裏に降り注いでいた冷たい雨とは違う。世界を祝福するような、暖かく澄んだ雨上がりだ。
濡れたアスファルトが陽光を反射してきらきらと輝いている。これこそが、彼が命を賭して守り抜いてくれた「光り輝く未来」なのだ。私は大きく息を吸い込み、初夏を含んだ風を肺いっぱいに満たした。胸の奥の喪失感はまだ消えない。けれど、それはもう私を押し潰す絶望の重りではなく、彼が私の中に確かに存在しているという温かな証へと変わっていた。
「見ててね、信長様」
眩しい太陽に目を細めながら、私は空に向かって誓った。貴方が愛し、託してくれたこの時代を、私は笑顔で生きていく。たとえ四百年の時が私たちを隔てていても、この空はあの日の本能寺へと繋がっているはずだから。
ビルの合間に架かる淡い虹を見上げ、私は力強く一歩を踏み出した。時空を超えて貴方を想い続ける。それが私なりの、生涯をかけた「天下布武」なのだから。